翌日
時刻は午前十時を迎えようとしていた。
男はまだ夢の中にいる。
早朝に男の腕をすり抜けた女は上機嫌に朝食の下準備とリビングの掃除を終えていた。
そこへ依頼人の女が起きてきた。
「香さん、おはよう。大丈夫?」
「おはよう、おかげさまで、もう大丈夫よ。」
顔をあわせた瞬間は昨日の緊張感を二人ともその顔に引きずっていたが、
その緊張の糸を引きちぎったのは依頼人の女だった。
依頼人の女はふっと一息を吐きながら笑みをこぼした。否、苦笑したのだ。
「香さん、私ではあなたのライバルにすらして貰えないみたい。完敗だわ。」
「え?」
依頼人の女の言葉に女は疑問の表情を呈した。
「彼、あなたにゾッコンなんですってよ。」
女はその言葉に呼応するように一気に赤面した。
「あー、くやしいなぁ。見ての通り私誰にも負けたことなんてなかったのになぁ。」
依頼人の女はそういうと無邪気に女に笑いかけた。
「そんな・・・。美香さんは魅力的だわ。私なんか・・・」
「あーヤメヤメ!!それ以上言われたら、どんどん私が惨めになるじゃない。
それは、全然フォローでもなんでもないわよ。」
依頼人の女はそういってひらひらと手を振った。
「そうね。コーヒーでいいかしら。」
「ええ、お願いするわ。」
女がキッチンへと姿を消すと、入れ違いに男がリビングに姿をみせた。
「冴羽さん、おはようございます。昨日はよく眠れました?」
依頼人の女は意味深な笑顔を男に向けた。男ははにかむような笑顔を女にむけるとソファにどっかりと座った。
「よ〜く眠れましたよー。起こす気も殺げるほど誰かさんがよく寝ていたんでね。」
新聞を開きながら男が不満そうに呟くと、依頼人の女は無邪気に笑った。
「君も、よく眠れたみたいだな。」
「ええ、おかげさまで。不思議・・・なんか、すっきりしてるんです。」
「そうか。君の本来の目的が果たせたわけだ。」
「本来の目的?」
男は新聞から視線を依頼人の女へと移し、ふっと笑みを零した。
「君は、誰かに自分を否定して貰いたかったんじゃないか?」
「否定・・?私が?」
「ああ。君は肯定され続けてきた。勿論、それだけの実力が君にあったのかもしれないが、
完璧な人間なんて存在し得ないからな。・・・不安だったんだろ?」
「ふふ・・。やっぱり、感覚で生きてきた人には敵わないわ。」
「おいおい、俺は頭を使ってないとでも?」
男の言葉を契機に二人は笑いあった。
「何?楽しそうね。」
そこへ女がコーヒーを携え現れた。トレイの上にはコーヒーが3つ。
「さすがね、香さん。」
「え?何が?」
「こいつも、感覚で生きてる人間だからな。いや、感情かな。」
男はコーヒーを受け取りながら女に笑みを送った。
話の流れがよくわからず、女は不思議そうに依頼人の女に視線を移した。
「褒めてるのよ。頭でっかちな私にはないものを香さんは沢山持ってるって。」
「よくわからないけど、冷めないうちにどうぞ。」
女はそう言って依頼人の女にコーヒーを渡した。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「あれ?誰だろう。・・・はーいっ。」
女は自分のコーヒーとトレイをテーブルの上に置くと、玄関先へと走っていった。
「お客さんがいらっしゃること香さん知らないんですか?」
「いや、知ってる。だが、その客、いつもならずうずうしく上がりこんで来るんだが・・。」
男の顔から普段の装いが消えた。
「はい、どなたですか?」
『突然ごめんなさい。』
「なんだ。どうぞ。」
女は聞きなれたその声に安堵の声を漏らすと、鍵を開け玄関を開けた。
するとめいっぱい向こう側からドアが引かれ、勢い、女は前につんのめる形となった。
「な、何?」
「冴羽さんのお宅ですね。」
そこには普段見せることの無い神妙な面持ちの野上冴子が数人の黒尽くめの男とともに立っていた。
「冴子さん・・・?」
驚く女をよそに、黒尽くめの男たちが女の脇をすり抜けてズカズカと上がりこんでいく。
「こ・・・れはいったいどういうこと・・・?」
「冴羽僚に逮捕状が出ています。あなたにも事情聴取がありますので、ご同行願います。」
絶句する女の耳に依頼人の女の叫び声が入ってくる。
「何?何なのよ!!あんた達警察?!」
その声に我を取り戻し、女は振り返るとリビングへと駆け出した。
「リョウ!!!」
取り乱し男の名を呼びながら駆ける女の後を妖艶な女刑事が追う。
女がリビングに姿を見せた瞬間、男の太い手首に手錠が冷徹な音とともにかけられた。
「ど・・・どうして・・・?」
女はその場に崩れた。
「冴羽僚、庄野美香さん誘拐及び監禁により逮捕状が出ています。脅迫、殺人未遂についても
容疑がかけられています。署までご同行願います。」
「願いますったって、もう手錠かけられてるし〜。」
「ふざけるな!お前立場がわかっているのか!」
男ののほほんとした態度に黒尽くめの男のひとりが怒鳴りつけた。
「ほんっとに日本の警察ってバカじゃないの?逮捕する相手が違うでしょ!!」
依頼人の女は怒鳴り散らすと、現れた女刑事に視線を移した。
「え?・・・嘘・・・。もしかして冴子先生・・?」
「先生?」
そこにいた誰もが場違いな単語に疑問の表情を呈した。
女刑事はコホンと咳をし、やや顔を赤らめた。
「美香ちゃん、お久しぶりね。あなたのお父様から通報を頂いたの。あなたのご自宅に
脅迫状が届いているのよ。詳細は署でお話しするわ。じゃ、お連れして。」
女刑事は黒尽くめの男のひとりに命じた。
「冴子先生、あなたはもっと賢い人だと思っていたのに。残念です。」
依頼人の女は女刑事を睨みつけると黒尽くめの男に促されるままに、リビングを後にした。