第十一話:思考回路

バスルームでは思考回路の止まった女がひとり。
直接男の真意を確かめる勇気の持ち合わせもなく
依頼人の女の言葉を反芻した結果女の思考回路はショートした。
只々とめどなく涙が溢れるばかり。
「リョウ・・・。」
その名前を口にすればするほど心が悲鳴を上げていった。
バスタブに沈む長い肢体の先から、女の震える悲鳴を享受し水面が細かく波立ち波紋を広げていく。
女はしだいに物理的に与えられる温度の中に自身を失していった。


「うー寒ぃーっ!!風呂にでも入って温っまんねーと。」
男は騒々しくも愚痴りながらアパートへと戻ってきた。
「あら、冴羽さん、こんな時間に出かけてらしたんですか?だめですよ。」
依頼人の女はいたずらっ子を正す母親のように男に告げた。
「お風呂なら、今香さんが入ってらっしゃるから、もう少し待ってて下さいね。」
「香が?ったくタイミング悪いやつだなー。おおっさみっ!」
男は身震いを一つするとバスルームに向かって歩き出した。
「おーいっ、香ーっ。早く出ろよー。冷え切ってて寒ぃーんだよ。」
男の言葉に呼応するものは何もない。バスルームの前に立ち、もう一度言葉を吐く。
「おい、香。聞いてるのか?怒ってんのか?」
男は“怒りたいのはこっちのほうだ”と小さくつぶやきながら、ガシガシと頭を掻くと
バスルームに背を向けリビングに向かおうとし、ふとその足を止めた。
一瞬男の表情が曇った。
次の瞬間男は依頼人の女のもとへと駆けてきた。
「ど、どうしたんですか?冴羽さん。」
依頼人の女は明らかな困惑の表情を呈した。
「美香ちゃん、か・・香はいつ風呂に入った?」
「え、えーと・・・たしか。え・・?もう、こんな時間?たしか1時間ちょっと前・・・。」
依頼人の女が言い終えないうちに、男は再びバスルームへと駆け出していた。
「香!!おい、香大丈夫か!!」
男はバスルームの扉をガチャガチャとやるが、鍵がかかっている。扉を叩くも反応はない。
後から依頼人の女が駆けてきた。
「香さん大丈夫ですか?」
依頼人の女の言葉には応えず、男はバスルームのドアを蹴破りにかかる。
「ま、待って冴羽さん。そんなことして、万が一ガラスが割れでもしたら。」
「そうだな、君は危ないからリビングに行っててくれ。」
「あの、そうじゃなくて、香さんが。」
「大丈夫香はバスタブの中だ。早く向こうへ。」
「あ、じゃあ私着替え持って・・・。」
「ここにあるからいい・・。」
「でも、ドアが開けられたとして、香さん裸だから、ここは私が。」
「いいから、あっちに行ってろ!」
男は依頼人の女に吐き捨てるように言うと、力任せにドアを蹴破った。
男の怒声におののいた女は後ずさるようにして、その場を離れた。

ドアが開かれると男の表情を曇らせた思惑は現実のものとなり、目前に広がっていた。
女がぐったりとしてバスタブに片腕をかけたまま気を失っている。
バスタブにもたれ掛かる身体は首が傾げられ、女の口が半分湯の中に没していた。
男は急いでバスタブの中から女を引き上げると、バスタオルでくるみ
自身の部屋へと運んだ。
かろうじて息はしている。
男の呼びかけに答える様子は見られなかったが、冷え切った男の手が女に触れると
女は顔を歪ませた。
男は安堵した。
そこへ、依頼人の女がミネラルウォーターを片手に現れた。
「あ、あの、冴羽さん。お水・・・。」
「ああ、すまない、そこに置いておいてくれ。」
男は視線を女から外さず、声のみで応えた。
依頼人の女は自身の存在が、その部屋の観葉植物となんら変わりないのを察し、その場を後にした。

「っっくしょんっ!」
自身が濡れるのも構わず、女を抱きかかえそのままでいた男は一際大きなくしゃみをした。
「・・・ん、ゃだ、リョウ・・風邪・ひい・・ちゃ・・・ったの?」
女は長い睫を気だるそうに持ち上げ、うっすらと瞳を覗かせると、男の顔に熱を帯びたその手をあてた。
「ばーか。病人はお前だよ。」
男は自身の頬に当てられた手に自身の大きな手を重ねると、小さく笑った。
「な・・んか、上手く・・・声が・・。喉・・渇いた。」
女はポツリ、ポツリと言葉を零す。
「あ、悪ィ。ちょっと待ってな。」
女は薄いベールがかけられたような思考で男の声を不思議と自然に受入れていた。
男はミネラルウォーターのペットボトルを片手に戻ってきた。
女は身体を起し、ペットボトルを受け取ろうとしたが、儚くも叶わなかった。
朦朧とする意識が自身の肢体をコントロールするには整備不良この上なかった。
「無理するな。」
男はそう言い、女の肩を抱くと腕の中に掻き抱き、一口ミネラルウォーターを含んだ。
そして女の口腔内へと口移しにそれを流し込んだ。
自然女の咽頭がゴクリという音とともに下がった。
「・・・リョ・・ウ・・。冷た・・・。」
女の言葉が何を指すものなのか―
深読みしてしまう男の思考回路が男をドキリとさせた。
「シャツ・・・着替え・・ない・と。」
「そうだな。」
男はそっと女を横たえると濡れたTシャツを脱ぎ捨てた。

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